昭和四十六年二月二十八日
御理解第三十七節
「生きて居る間は修行中じゃ。丁度学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読む様なものであろうぞい。」
昨日日田の綾部さんがお参りにお見えになられてから、先生二日間麻生さん続けて泥棒の入った夢を頂いたと云われる。私共の頂く夢だから雑夢だろうと思うのですけど、だけども信心させて頂く様になってから頂くのですから、そんなことはない。それはやはり、御神夢、しかも同じ夢を二晩も続けて頂いておられるから、これはやはり泥棒の入った夢であるとするなら、第一今迄ろくそうにしておった戸締りでももう一遍見回って見る位な、泥棒の入るお知らせかも知れない。まあそういう意味もありましょうけれども、本当は大体こういう事でありましょうね。と、云うてお話を聞いてから話したことでした。
そういうのは前の晩に頂かれたのは、泥棒が入った。ところがあちらに大きな飼犬が居ってその飼犬が吠えて追い返したと云う話であった。ところが、昨日の場合言葉に取られたもんには、応接室の方に三人泥棒が入って来た。あちらの応接室は入口からと出口と両方、自分は出口の方から入って、泥棒は入口の方から入って來ると、こういう訳である。
手ん平に木剣を持ったりアイクチを持ったりして麻生さんは剣道、柔道、居合術とかいろんなことを相当な達人です。それぞれ何段かの有段者です。ですから、その泥棒が入って来たと云うて自分でもその木剣を持って入った。ところが泥棒が入って來る。自分が入って行くして、自分の持っている木剣で真先にやって來る短刀を持って來る泥棒の短刀を叩き落とした。ところが、自分の持っていた木剣が反対の方へ曲がった。あ痛、これはどうしようかと思ったら、その勢いで三人とも逃げるのは逃げました。こういうお夢でしたと云う。で、これは先日から、先生からあんなお話を頂いて居ったから潜在意識の中にあったんだろうかと、と云うて話されますのは、私がこれはまだ青年時代だったですが、私も何かそういう夢を二晩続けて頂いたことがあると、そういう話をした。
と、云うのはお宮さんの境内を來る時、予太者風の人達が七、八人私を取り囲んで手に手に竹切れや棒を持って私に何か因縁を吹き掛けておる。それで私は真中に在ってから一寸まて、何のための事かと話せば分かるじゃないかと、私がもう弁舌さわやかに説き伏せて居るところで目が覚めた。ところがその翌日又同じ様なお夢を見た。その時もやはり予太者風に取り囲まれてする時に、私はその時にはもう言葉は、・・話で片付けようとはしなかった。取り囲まれたその中に座って、金光様と云って中にどん座った。と、同時にその私を取り巻いとった予太者がバラバラ散って行くことのお夢を頂いた。
そういう話をしよったんです。そういう様なことを頂いとったから、潜在意識でしょうか。私もそうして泥棒の入っている夢を二日続けて頂いてそれを追い出す方法は、初めの晩は犬が追い出し、その次のお夢は相手のと首を木剣で叩き落とした。それでその威に恐れてか三人とも逃げて行った。けど、叩いた自分の持っておった木剣が反対にこうなってもう使い物にならん様になったとの話であった。そしてああ、向こうて来られとったらどうなるであろうかと思うところで目が覚めたと、こう云うのである。
お互いが段々信心が分からせて頂くこと、人間の知恵、力又は自分の我力と云うものがどの程度の事を為し得るか。
初めの晩に頂かれたのは、云うなら犬が追い出したと云うのだから、自分の持っておる煩悩と云うか、自分の欲望が取られちゃならんと云う欲望が一生懸命で追い出した。
次の晩の自分の持って居る力で追い出した。剣道なら誰にでも負けん、自分の業を会得しておられるから、木剣を持って相手にしかかる。成程、自分の業で、自分の力で追い出したけれど、もしその泥棒がも一つ向かって来て居ったらどうにも仕様のない事じゃ、まあそれで逃げた、退散したから良かった様なものであるけれども、自分で不安を持っておる様に、ほんにこれで向こうて来とったら、自分の持っておる木剣は折れる。しかも相手は三人もおるのに、どうなっただろうかと思う様なお夢であったと、こういうのです。
私共が日々信心させて頂いて取り組ませて頂く事はどういうことかと云うと、自分の我情であり我欲である。
自分の我情我欲に取り組ませて頂くことがです、これは恐らく一生の事であろう。
昨日、甘木の平田様と樋口さんとがお見えになられましてゆっくり信心の話なんかして行かれました。その中に、いわゆる先代のお話が出て参りますが、その中にこういう事が或先生が甘木の初代の安武先生に、安武先生、貴方位のお徳を受けられたのですから神様の把握が充分出来ておられるでしょうと云うてお伺いしたところが、それがそれがとても神様と云うものは私共が把握できるような神様じゃないと仰った。段々この頃判らんごとなってきたと仰った。これは把握するとか何とか云うけれど、実際は人間の知恵じゃとても把握できる神様じゃない。むしろこの頃じゃ段々判らなくなって来たと云われたそうでして、私も実感して参りました。
昨日も私申しましたけれども、この頃は私も判っておるけれども、これから先はまだどれだけあるじゃ判らん。そのどれだけあるやら分からん世界に私共は突入しておるのであり、それに挑んでいるのである。どこまで挑んでも、何処までそこに入ってもまだまだ先の方は五里霧中である。
天地金乃神様はそういう神様である。私共の浅い人間の知恵、力で把握できる神様でない。その神様を私共がいよいよです、少しづつでも分からせて頂こうと云うのが信心。それが今日御教え下さる生きておる間は修行中じゃ。丁度学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読む様なものであろうぞいと仰られる様にまだ分からない世界。まだ分からない神様の心と云うものを、これで良いと云う筈がない。それを少しづつでも押し進めて行き少し宛でも分かって行くと云うことが楽しくなる、有難うなる。
お徳を受けたと云うても、御神徳を受けたと云うても、もうこれで良いと云う筈がない。受けて行けば受けて行く程有難うなる。有難うなるから又一段と御神徳を受けて行く為に精進させて頂く様に、それは私共の我情我欲に取り組んで行く以外ないのである。
自分の思い、又は自分の我欲、これには限りがないこと。如何にもそれを取り澄ました様に云うておっても、もう我情我欲がないと思うておっても出て來ることがあると云うことは、もう驚くばかり。それでもね、それでも精進させて貰うておると云うことがです、わが身は神徳の中に生かされてあるんだなと云う実感が出て來る。神様の懐にあるんだなあと云う心易さと云うものが心の中に頂けて來る様になる。そこのところの楽しみと云うものは、丁度学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞいと云った様なことではなかろうかとこう思う。
日田の高柴さんが段々ああしておかげを受けておられます。皆さん御承知の様にここで総代としての御用を頂いて、あちらの信心が素晴らしいとも思わない。手本になる信心とも思われない。けれども段々信心を頂いて行く内に、自分達の力のないことが段々分かって行く、段々分かって來るに従って、これはもう神様任せになるより他にないと云う思いが非常に強くなって來る。これは夫婦ともそうです。皆様御承知のようにあんなに商売が繁盛して自分がやっとの思いで買い取った家が、只一事が万事親先生にお願いしてからするのに、その時だけは魔がさしたとでも云おうか、親戚の方に印を押してやったばっかりに、家も屋敷も家財道具も全部取り上げられて仕舞うと云った様な浮き目に遭われた。
それから他家の家の家屋裏の様なところに親子住まわれて一番最後に田主丸におられたあの家を買い取られ、土地を家を買われる、て、行かれる迄には随分の修行であった。
おかげで家も自分の物になった。屋敷も自分の物になった。お店の方も大体軌道に乗ってきた。おかげで売子さんもだいぶん出来て、もう楽に商売が出来るようになった。と云う時分に日田の今の綾部さんのところから、こうして別の商売を始めるから自分とこの責任者、支配人格で来ないかと言う誘いがあった。
今云われる綾部さんもどうでもこうでも高柴おっちゃま、おばしゃまに、どうでもこうでも来て貰わにゃんと云うことではなかった。只、一寸誘いをかけただけであった。
ところが、うちはもう一から十迄金光様に御伺いせんと出来んとじゃけん、とにかく一度お伺いしてから返事しようと云うことであった。
もう高柴さんもここに来てからお伺いされる事は、よもやここまで商売も軌道に乗って、家屋敷もようやく自分の物になったと云うところじゃから、日田行きのことを話されようとは思わなかった。実際は馴れない商売の所へ行こうと云うのですから。
ところが、お伺いさせて頂いたら、それこそいと簡単に日田の方へ行ったら良かろうじゃったです。そりゃ又人間心で考えて、とてもそげな無茶苦茶な事があるもんかいと自分でも思うたけどですね、神様から頂くことはそうであった。行ったが良かろう。さあそれから、あただ家屋敷をあれして日田の方へ行かれた。しかも自分に馴れない商売のに飛び込んで行かれた。
ですから、例えば我情我欲を離れてと言うことはね、離れると云う稽古でしょう。それはやはり、自分にも大変な冒険だったと思いますよね。
今迄は神様任せにさえなっておれば、おかげを受けたことは事実である。今度と云う今度の場合はどげんなるちゃ分からん。しかも、折角商売も軌道に乗っておるのに、けれどの親先生が日田に行けと仰るから行くことを承諾さっしゃったら、綾部さんの方が驚かっしゃった。そしてたまげたことは、こういう様な状態の中に日田に行けと言われたらハイと、行く高柴さん達夫婦のね、心を自由自在にさっしゃる先生ちゃどげな先生じゃろかと思うた。とにかくそげな事に対する御礼参拝されることもさり乍ら、好奇心半分、いやもう殆ど好奇心じゃなかったろうかと思う。
こげな事をハイと任せられる先生ちゃ、どげな先生じゃろうかと思って来らせて頂いて、お合いしたのが、ここへああして打ち込まれる基になった。大したことですね。人間のこういう事での一生一代の大問題になる様な事を平気で任せられる事は大変なことだと思われて段々お参りして來る。お話を承る様にならせて頂いてです、成程、成程自分達の我情我欲の為の、自分の力で出来ると思うておった商売が、これは神様のお力に依らなければ出来ぬ事が段々分かって来た。
丁度平田さんと樋口さんと見えておられるところに高柴さんと綾部さんとが参って見えました。応接間であの人達の体験談をそれこそ頂かれて大変おかげを受けたと帰ろうかとしておられるところに、麻生さんがお参りにお見えになって大変話がはずんで夕食でもお済ましになられてお帰りになられたんですけれども、その私共が取り組むと云うことがね、我情我欲に取り組むと云うことが一生だ。
何故かと云うと甘木の親先生をして、もう日本一の大徳の先生だとして、大先生になられて、先生貴方は神様をもうはっきりと把握しておられるであろうと尋ねられた時に、どうしてどうして、まだこの神様が人間の知恵、力で把握の出来る神様じゃなか。いや、むしろ段々分からなくなったと云われたと云う、そういう神様に取り組んでおるのだ。
修行も、やはり限りない修行に取り組むのがそれは当然である。しかも取り組むことはどういう事かと云うと、丁度学者が年を取っても本を読むように、学徳が身に付く事がいいよ楽しむ様に、私共いよいよ信心させて貰うていよいよ神徳が本当の神徳になって行くことが有難うなり、楽しうなって來ると云うところになるのである。 そこで自分の我情我欲を例えば、麻生さんの泥棒の二晩続いたお夢の中から自分の欲が泥棒を追い出す事も出来る。出来たその翌日は自分の力で追い出した。けれども、自分の心の中では、これでもし相手でも一度しかかって来とったら、どういうことになっておったろうかと、自分の力とはそういう程度のものなんだ。自分の欲でしたところで、その程度のことなんだ。これは我情我欲でやったんじゃいけないと、段々気付いて来られたのが、最近の綾部さんの信心じゃないかと思う。
昨日、御神酒を頂ながら平田さんが、綾部さんに向こうて言われるんです。綾部さん、どうでもお道のお役に立たせて頂く人になって下さい。男とか女とかそんなことじゃない。やはり力を頂かんならん。そういう意味で綾部さん貴方と兄弟分の盃を取り交わしましょうと云うて、兄弟分の盃をされた。有難いと思いますね。
それでは自分の我情我欲でした商売で、お役に立たせて頂ける筈はない。私がいよいよおかげを頂いて日田の財閥と云われる人達を皆お導きしたいと思います。どうぞお願いしますよと云った様なお話でした。如何に力になって呉れ、如何におかげを頂いて呉れと云ってもです、やはり有るものが有らなければ、力が有らなければ役には立たんのだと、私が我情我欲で今日迄商売をして来た。もう我情我欲で行けないことを悟らせて頂けて、今日こうして丁度日参を初めて一年になります。したところがですね、私はさすがに思いました。平田さんがこの前の寒修行明けにお話にお見えになった時に、貴方お見えになっておりましたねと覚えてあった。私はあの時貴方の話を聞いて驚きました。まあどうした無茶苦茶なこと云う人じゃろうかと思うて思いましたが、こうやって今日お話をして見ると貴方の話されることに一一年間自分の信心の稽古に依って貴方の云う事が分かりますと云う様な話をしておられて、その一年前に沢山の中に座ってあった綾部さんを覚えてあった。
そこで兄弟盃をしようとお道の上でのと、云うことまでなって来た訳です。しかし、本当に有難いことだと、本当に私は思わせて頂いたんですけどね。
合楽の先生どうでも現在の金光教をひっくり返して下さいと、私に言われる。それはね、金光教を潰してと云う意味じゃないです。 現在の金光教では助からん、合楽の教会の様なのが沢山出来なければいけんと云う意味なんでしょう。
本当に金光教を語る。一生懸命それこそ自分の我情も我欲も命までもはめてからこの事に取り組んどると云うておられましたがです、私が四十二の時でした。全部息子達に商売を譲ったのは、それまで儲ったり儲らじゃったりでしたけれども、それ以来はずーっと現在の様に伸びるばかりでした。
そして私はお道の為に一生懸命に尽くさせて頂いたら、それこそそれから先は儲ったり儲らやったりはなか。もう儲るばかりだったと云うことであった。
だからその我情我欲に取り組んで、いよいよ儲るばかりと云ういよいよ吾が身は神徳のなかにあるんだと云う実感をいよいよ道のものにしていく、いよいよ有難いものにして行くと云う修行でありますから限りがない。
だからそういう、なら我情我欲に取り組んでの修行の一番しやすいのが神様任せであり、親先生任せであると云うこと。
舟は帆任せ、風任せ。
この波の高いのに舟は帆任せで行けるだろうか。転覆どんする様なことなかろうかと、云う様な時も有ろうけれども、高柴さんの神様任せ、親先生任せのそれである。今の侭行けば商売も軌道に乗って家も屋敷もようやく手に入ったと云う時にです、全然自分したこともない、体験もない商売に飛び込んで行こうと云うのであるから。 けれども、親先生が日田行きが良いと言われるから、日田行きを決心して、綾部さんはそれに感動された。だから神様任せに成ることはね、信心が出来る出来んは別として、その内容がどうであるかは別として、神様が氏子がままになる、氏子が神様任せになることは、神様がままになられることの場が出来る事なんですから、神様がお喜びにならん筈がない。
一年後に大分支部が出来ると、誰も夢にだって考えたことがないでしょう。高柴さんが日田に行かれなかったら日田の日の字もなかったでしょう。その様に氏子が神様任せになると云うことは、神様がままになられることだ神様の願いが成就することなんだ。
ですから、氏子の願いが段々成就して行かぬ筈がないと云うおかげになって來る。自分の我情我欲で願うた。願うたことが成就したところで、それは貴方の願いが成就しただけなのだ。神様の願いの成就じゃない。
そういうおかげを目指しての事ですから成程一生が修行なのだ。 高柴さんが親先生が云われるからもう安心しきってと云うことはなかったろうと、やはり不安があった。やっぱり我情我欲もあったろう。けれども、今迄の体験から親先生任せになっておればおかげになっておることを思って大決断された。
さらっと決心されたところに、高柴さんの信心の素晴らしさはそこにあると思うんです。
神様の願いの成就する為の決断であった。
氏子が神様任せなら神様は氏子任せになる、と、仰せられますからと云う様なことが本当だなと分かって來る。神様任せになておると、高柴さん御自身もおかげを受けておられる事実がです、成程神様任せになって行きゃ、氏子の事は神様がみて下さるんだなあと、云うことの体験を積み重ねて、もっともっとすっきりとおかげの頂けれると信じれる道を進ませて頂こうと云うのです。
ですから、いよいよ自分の我情我欲に取り組むと云うこと。そこんところを今日はわたしは、一生が修行だと云うことを、恐らく私共は一生もう我情我欲、取り切れて仕舞うと云う筈がなく、そういう有難い尊いことに取り組ませて頂く事がね、神様の願いが成就する為に精進すると云うことになる。その事が有難い、その事が楽しい。
学者が年を取っても眼鏡をかけて本を読む様な、私共が幾ら年を取らせて頂いても、自分の我情我欲に取り組ませて頂くことに、いよいよその有難さを身につけて、私共が甘木の先生のいよいよ神様が分からんごとなったと云われる偉大な、とてつもない神様に取り組ませて貰ったのですから、限りないおかげにつながる意味に於いても、限りない神様を分からせて頂く意味に於いても、限りなく自分の我情我欲に取り組ませて頂いて、自分の力、知恵、自分の我力位でどんやりよることは、一ぺん早う一掃させて貰うて、神様のおかげを頂かなければ出来ることではない事を分からせて貰うて、我情我欲に取り組む修行、これこそ、一生が修行だと云うことになるのではないでしょうか。
今日は修行と云うことをね、我情我欲に取り組むと云うことだけに、絞ってお話を聞いて頂きましたですね。 どうぞ。